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あしあと

    どんどん拳の由来

    • 更新日:2012年7月12日
    • ID:57

    文化

    プロフィール:文化

    どんどん拳の由来

    「どんどん拳」という遊びは、最初は「バラ拳」と呼ばれておりました。
    なお、この遊びのほかに「庄屋拳」とか、「すっとさ」とか「よいよい」とか合わせて4種類ほどの遊びがあります。
    すべて2人で対面して競う遊びでありますが、「バラ拳」こと「どんどん拳」だけが、相手が要求したパターン(グー・チョキ・パー)のうち、どれか1つのパターンで、たとえば「グー」を出せと要求されたならば、「チョキ」とか「パー」を出すという、いわば出せと云われたものは出さないという「天の邪鬼」精神に基いております。
     しかし、そのほかの遊びは、原則としてキツネは鉄砲に負け、鉄砲は庄屋に負け、庄屋はキツネに負けるという3すくみに基づいており、すべてなにを出せとは云わないのであります。
    なお、これらの発生については諸説がありますが、筆者が4・5歳の頃、お目出た事で一杯飲んだりする時、大人たちが「バラ拳」などに、たいへん熱を入れて打ち興じているのを思い出します。


     その人たちが現在生きていたら、少なくとも120歳にはなっておりますから、かなり古い時代に、すでにこの遊びはあった筈と考えられます。    
     一説には、大正8年頃から昭和13年頃までに、今のイビデン(株)が藤橋から坂内にかけて、計4つの水力発電所を建設したので、その折りにここへ入ってきた、労務者たちから教わったのではないかと云われております。しかし、坂内にはこの遊びはないようです。
     ところで、筆者の考えとしてはこの遊びは徳川末期の頃まで、ここいらは尾張藩領であり同じ尾張領の乙原に、数基の石灰窯があって、その1つが藤橋のものだったので、産出した石灰を、庄屋たちが名古屋へ納めに行ったり、そのほか薪炭や、時には朝鮮人参とか、ワサビなどを土産に持って行ったりした時、大きな料理屋で精一杯飲み食いして羽目を外し「大いに飲み候て、裸踊りなど致し候」と、当時の日記に残されているところから、ひょっとしてこんな時に覚えてきたのではないだろうか。
    この遊びには、どうやら京都は祇園あたりの舞子と、旦那衆が競いあったら、また、格別の風情がありそうな雰囲気を持っている。
    そのようにして覚えてきた庄屋や同行の顔役たちが、家へ帰って、来て折りにふれてそれをやって見せたのが、事の起こりではないかと考えるのは,さほど無理なことではあるまいと思えてくるのです。

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