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あしあと

    校章の募集、疎開の思い出

    • 更新日:2014年9月1日
    • ID:855

    都会生まれの都会育ち、社会人になってからもビル街や商店街の中で、仕事をしてきた私にとって、終戦も近い昭和20年の春・北方小学校の5年から北和中学校3年の4月までの4年間は、初めての自然に囲まれた生活であり、四季それぞれ懐かしい思い出がいっぱいである都会生まれの都会育ち、社会人になってからもビル街や商店街の中で、仕事をしてきた私にとって、終戦も近い昭和20年の春・北方小学校の5年から北和中学校3年の4月までの4年間は、初めての自然に囲まれた生活であり、四季それぞれ懐かしい思い出がいっぱいである。
    春は桜、小高い丘にある小学校が満開の桜に桜に埋もれたように見える眺めや、揖斐川沿い桜並木。
    夏は蛍、若宮・中山の田園の暗闇に乱舞する光景や、数匹採って帰り蚊帳の中に放ったことなど。
    秋は稲刈りのあとの煙棚引く夕暮れ、脱穀機(当時は足踏み式)のギーギーと響く音が、日暮れとともだんだんと遠のいていく、のどかな風情。
    冬は雪景色、地蔵坂の急な坂道を幾度となく転んで通学したことや、野山や田園一面が銀世界となる墨絵のような風情。
    今では、当時の厳しい寒さやつらかったことなど忘れて、全てが美しい思い出となっている。
    新設の北和中学校には、開校2年目の入学となり、1年の時の担任が女性の清水先生で、2年の時が男性の清水佳夫先生だった。
    校風や伝統などにとらわれることもなく、また昨今のように受験戦争や塾通いもなく、極めてのんびりした学生生活であった。
    教科書の授業は全く記憶にないが、清水佳夫先生が教科書を離れては、時事問題や世界情勢など、時折話してくださったことが心に残っている。
    戦後の学生運動のはしりの時代で警察官との衝突の背景や中国における蒋介石の国府軍と共産軍との抗争の模様など、新聞などを読む習慣のなかった当時の私が大変新鮮な気持ちで聴いていたことが残っている。
    校章の募集は、昭和23年であった、と記憶している。
    病気で休んでいたとき、退屈紛れに数点応募したうちの一つが幸いにも採用され、病気も治って登校した折り、「大学の紋章のようだね」との校長先生のお言葉がいまだに面映るゆい。
    私も還暦を過ぎて3年目、ボツボツ、サラリーマン生活にも卒業が近づいてきた。
    思い出の四季折々の風景も、今ではそのいくつかは見られなくなっているのではないかと思われるが、私の第二の故郷である北方村や北和中学校を、桜の美しい季節に妻と一緒にもう1度歩いてみたいと思っている。
    人工衛星やインターネットの時代なっても、私の生涯で北方村での4年間は、潤いに満ちた思い出として、いつまでも大切にしまっておきたい。